記憶の原風景への旅『フェリーニのアマルコルド』
こんにちは、キーノです。
今回の作品は『フェリーニのアマルコルド』
巨匠フェデリコ・フェリーニ監督、1973年のイタリア映画(124分)です。
本作は僕のオールタイムベスト10に入る大切な一本。
この物語は、回想としての記憶ではなく、ありし日の想い出そのものに浸ることのできる素晴らしいものです。
あらすじ
無数の綿毛が風に舞い、冬の終わりを告げる。イタリアの港町リミニにもいよいよ春が来た。
村人は燃える枯れ木の大櫓を囲んで春の訪れを祝う。大人は歌い踊り、子どもは爆竹で悪戯をする。
15歳の少年チッタはグラマーな美女グラディスカに夢中だ。
これはリミニのとある一年の記憶に触れる人間讃歌の物語。
いざ<記憶>の原風景へ
黒地をバックに浮かび上がるメインタイトル『AMARCORD』。
そこへニーノ・ロータのノスタルジー溢れる音楽が流れ出す(映画音楽で一番好きかもしれません)。
さあ始まる、想い出への旅が!
本作最大の特徴、それは想い出そのものに浸れるということ。つまり回想や想起として過去では決してありません。
「思い出す行為」は視点(支点)が必ず現在にあります。そうして思い出された記憶は、ある意味で現在により作られた過去の物語です。
それは例えば、ジュゼッペ・トルナトーレ監督が得意とするような、あるいは『スタンド・バイ・ミー』のようなもの。
そこには現在の語り手が、語るべきストーリー(記憶)を抜き出す行為しかありません。
そうなるとこれは不完全な記憶であって、過去の一部をしか見ることができないのです。
しかし『アマルコルド』はどうでしょう。
ここには現在の語り手が存在しません。
ニーノ・ロータの音楽が明けると、そこはもう「あの日の」リミノなのです。
つまり本作は、かつてあった記憶の原風景そのものにどっぷりと身を浸すことのできる奇跡の映画なのです。
しかし裏を返せば、それは物語に一貫性がないということも意味します。
現在の語り手がいれば、彼・彼女が伝えるべきテーマに沿ってストーリーを上手く料理してくれますが、本作に現在時は皆無です。
その甲斐(?)あって、『アマルコルド』には一本筋の通ったストーリーというのが見当たりませんね。
ただただ溢れんばかりの記憶が堰を切ったように観る人に向かって押し寄せてくるのみです。
しかしフェリーニ監督は観る人が道を見失わないように、過去の中に水先案内人をそっと忍び込ませていますね。
それがカメラ目線でリミニの過去を語る老人たち。
彼らはリミニの記憶(過去)その場所に属していながらも、僕たちを先導してくれます。
こうして僕たちは、ありし日のリミニを思う存分に満喫することが出来るのです。
アマルコルド、私は覚えている
すでに知られるところですが、タイトルの「アマルコルド」とは、リミニ(フェリーニ監督の故郷)の方言で「私は覚えている」という意味。
焚き火を囲んで騒乱する村人、映画館で憧れのお姉さんの太ももに手を置くチッタ、夜の海に現れる巨大な船、純白の雪景色に降り立つ一羽の孔雀…
フェリーニ監督は時に寓話を織り交ぜながら、想い出のふるさとを万華鏡のように見せてくれるのです。
想い出とは、もう二度と直接的には触れることのできなくなったもの。
そこに究極の美しさと切なさを感じます。
本作のラスト、結婚式の宴が終わり、村人たちは散り散りにスクリーンを後にする。
そこに綿毛が舞い出した。残った数人の子どもたちが冬の終わりに歓喜している。
遠景で映し出されるこの光景に、物悲しさと懐かしさが漂い出す。
あぁ、終わってしまう。
全編通して笑える映画なのですが、毎度このラストには寂しさと喪失感を覚え、涙が出そうになります。
『アマルコルド』は二度と戻ってこない想い出に、可能な限りもう一度触れさせようとしてくれるミラクルな映画なのです。
しかし綿毛が舞う季節は春の訪れ…よしもう一回最初から観よう!