『処女の泉』から『鮮血の美学』へ
こんにちは、キーノです。
今回の映画は『処女の泉』から『鮮血の美学』へと渡り歩きます。
前者はイングマール・ベルイマン監督、1960年のスウェーデン映画(89分)。
後者はウェス・クレイヴン監督、1972年のアメリカ映画(81分)です。
『処女の泉』は言わずと知れた巨匠の名作。
対して、話の筋はそのままに現代版へと悪魔的アップデートを果たした『鮮血の美学』。
一体いかなる進化(退化?)を遂げたのでしょう。
善の勝利『処女の泉』
あらすじ
中世のスウェーデン。
裕福な地主テーレ、その妻メレータ、一人娘カーリンの一家は敬虔なキリスト教徒。
ある日、カーリンはキリスト教の勤めのため、教会に出かける。しかしその道中、3人組の羊飼いに強姦され命を奪われる。
その後、羊飼いたちが宿を頼んだのは、偶然にもカーリンの実家だった。父テーレは娘が殺されたことを知り、復讐に出る。
本作はキリスト教と邪教の、いわば善と悪との戦いを描いた話です。
この対立は2組の人物のペアで暗示されていますね。
まず一人娘カーリンと召使の女性インゲリのペア。
カーリンは純白の肌に黄金色の長髪。両親に愛され、甘やかされ、何不自由なく、そして一切の汚れのない存在。
まさに処女、善なるシンボルです。
対して召使のインゲリは、ボロボロの服装に薄汚れた肌、手入れの届いていない黒の長髪、そして身重の体。
インゲリはカーリンを呪うため、異教の神オーディンに災いを祈ります。
まさに彼女は罪と異教のシンボルとして描かれているのです。
それからもう一組、これは小松弘著『ベルイマン』を読んで知ったのですが、父親テーレとその妻メレータのペア。
小松さんによると、テーレは異教の雷神トール、戦争のシンボル。母親のメレータは聖母マリアの象徴。
ここに邪教とキリスト教の対立が暗示されているとのこと。
して最後、インゲリは災いを願った罪を懺悔する。またテーレも自らの復讐について、神に許しを請う。
そして処女の遺体の下から泉が湧き出す。これは神の許しを示すサイン。
つまり本作は善としてのキリスト教が勝利する形で幕を閉じるのです。
一方で『鮮血の美学』は?
悪の勝利『鮮血の美学』
あらすじ
平凡なコリンウッド夫妻は町外れの家に暮らしている。
ある日、一人娘マリーが友人と共に夜遊びに出かけた。
そこで出会った3人の男と1人の女に捕まった2人は、森の中で強姦され無惨に殺されてしまう。
偶然にも犯人たちを泊めることになった夫妻は、彼らが娘を殺したことに気づき容赦ない復讐を始める。
と筋はまったく同じ。
今やホラーの名匠として知られるウェス監督は、『処女の泉』を観て「現代に置き換えてもイケんじゃない?」と思ったそう。
そして実現した『鮮血の美学』ですが、いかんせん長編デビュー作なもので、『処女の泉』と比べるのは場違いというもの。
言うなれば、煮込んだスープからアクを取って洗練されたものが『処女』。
取ったアクだけで作ったのが『鮮血』という感じです。
『鮮血』は奇妙なリズム、粗い画面、慈悲なき残酷さと、とにかく観てて居心地が悪い。(良い意味で)
例えば、2人組の警察官が出てくるシーンだけ完全にコメディタッチ。
それが残酷なシーンの合間にサンドイッチされる感覚。
そして気の抜けたヘンテコなコメディ音楽は残酷な場面でもバックに流れる。
気色悪いですね。(良い意味で)
それから『処女』と大きく大きく違うポイント、もしかしたらここだけが上回っている点かもしれません。
両親による復讐シーンです。
『処女』みたいにサクッと復讐するのではなく、父親はホームアローン並みのブービートラップを仕掛ける。
さらに殺人道具としてチェーンソーが!
映画評論家・高橋ヨシキさん曰く、チェーンソーが武器として初登場したホラー映画第1号らしいです。
一方で奥さんは犯人の1人を誘惑して外に連れ出す。男のズボンを下ろしてアレを口にくわえる。そして程よいところでブチッ❗️噛み切るんですよ。
無慈悲な復讐を終えた2人が達した境地、それは神に許しを請う余地すら残されていませんでした。
犯人たちを超越する残酷さは、流された血をよりドス黒い血で洗うようなもの。
つまり夫妻は「目には目を」式の等価値な仕返しではなく、よりカオスでイービルな邪道に踏み込んだのです。
復讐を遂げた2人の表情を見たら一目瞭然。もう後戻りは許されない。
悪魔との契約、本作は完全なる悪の勝利で幕を閉じるのです。
というように、同じストーリーが十数年の時を経て、悪魔的変貌を遂げました。
合わせて鑑賞するのも面白いかもしれません。
ただ『鮮血』は精神的にシンドイ映画なので何卒ご留意ください。